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写真、機材、史跡等々についてのつれづれ日記
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・左願寺廃寺
 須坂市中心部から、やや北へずれた小石川地区。ここで法隆寺と同じ様式の古瓦が発掘されたそう。ここには、7世紀後半に遡る、古代寺院があったと考えられています。
 2017年現在、発掘調査は行われていないようで、実際に存在したのか、伽藍配置はどうであったのか、詳細は明らかになっていないようです。
 この遺跡については、最近、たまたま行った須坂市の温泉施設で、置いてあった市関係の書籍を見て知りました。私は須坂市と縁深いわけではないのですが、大学時代、運転免許を取得する際、親が須坂の自動車学校と関係があって、そこで免許を取得しました。
 大学の夏休みに二週間ほどマイクロバスに乗って須坂まで通学しましたが、毎日、車窓から「○○寺○○」という遺跡の表示板を見えていて、機会があれば行ってみたいと思っていました。
 その後、就職、時折思い出していたものの、忘却しかけていたところです。位置的に、どうやらこの遺跡。というわけで、20年ぶりの調査です。

・立地
 現地へ行ってみても、住宅地、りんご畑などになっており、基壇址などの明確な遺構は見当たりません。雪に覆われていると、土地の高低差などがよく分かると思いましたが収穫はありません。
 外用として土地は、南北に流れる千曲川に向かって西になだらかに下っていく土地であり、この遺跡の西側100mほどで、大きな高低差が川に沿って続いていて、いつかの時期は、ここが千曲川の河岸であったのかもしれません。大河の岸に近い場所に建造されている点は、越後国分寺と考えられる元長者原廃寺と似ている部分であり、建設資材等は船により運ばれたのかもしれません。

・今後も調査
 何が出土したのか、まったく知識がないので今後、図書館等で調査をしてみたいと思っています。
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年単位で間が開きました。諸般の事情でそれほど調査ができていない、本長者原廃寺(越後国分寺)ですが、私にとって青天のへきれきとも言うべき、新聞記事が。
 2015年10月28日付けの新潟日報の「まちかど歴史探訪」というコーナーに載った、「国分寺塔の礎石と伝えられる石」という記事です。
 
 この石については、また記事を改めて記載したいと思いますが、失われた塔心礎の一部と伝わる切石で、写真まで掲載されていました。そして重要な情報もいくつか。
 また調査に力が入れねばならない状況となってきました。

 さて、この間、私自身がしていた事といえば、ほぼ何もしていなかったに等しいのですが、それでも時折、インターネットで情報を探すことを中心に活動していました。
 奈良文化財研究所の古代寺院遺跡データベースというデータベースで、本長者原廃寺の塔跡の具体的な場所がわかり、これと旧更正図等を重ねて検討し、本長者原廃寺の伽藍配置を私なりに推定してみました。



 建物基壇跡と想定されている畑の配置は、一番北の講堂跡想定の畑から金堂跡想定の畑までの距離を1とすると、南門跡と想定される畑までは、金堂跡から2の距離となっていて、やはり国分寺式配置にかなり良く整合しています。金堂跡と南門跡の中間点、金堂から1の場所には中門があったのではないでしょうか。
 
 そして、この畑に甲斐国分寺の実測図を重ねると、ほぼ原寸で講堂、金堂、南門基壇の畑位置が甲斐国分寺の講堂、金堂、南門に一致します。そして、塔跡も。

 本長者原廃寺の塔の規模は甲斐国分寺よりもやや小さいようですが、金堂、講堂等はほぼ同規模だったのではないでしょうか。

 これまで、私が想定し、現地を探索していた辺りよりもはるかに西です。そして、南側が関川による段丘地形で、崖のようになっているのですが、この崖に接近していることも注目したい点。古代の今池遺跡には南北に作られた運河の痕跡が出土しています。つまり、船で国府(今池)までこられたということで、おそらく、本長者原廃寺の南を流れる関川の水量が今よりはるかに多く(平安海進?)、川幅も広大でこの運河と接続され、船の交通も盛んであったと思われます。
 とすると、京都の僧、万里集九が京都から船で来たとすれば、海から広大な関川に入っても河川であると思わず、関川のことを海として、「越後国分寺は、海際の崖の上にあった」といったのかもしれません。
行ってみたかった片山廃寺、行ってまいりました。
 しばらく、行ける見込みはなかったのですが、ひょんな事から近くへ家族旅行に行くことになり、朝5時に起きて朝に見学してきました。7時には家族の下へ(^^;。
 ふむ、良いですね。
 付近は住宅地。史跡地は公園となっていますが、車を止める場所はなし。車を止める場所があれば、もっとよく見れたのですが、車をとめる場所を探すのに時間を取られ、移動に時間を取られであまり良く見れませんでした。
 
・塔はどこに…
 さて、先般、話題にしました幻の塔はどこであろう、と公園から南に続く小道へ。そこにはなんとなく話に合いそうなアパート。敷地もやや周りより高いような?。塔基壇の名残か?

・土地の高さ
 しかし、見学時、土地の高さがこの遺跡の疑問点の一つ。金堂の復元基壇は道によって分断されているのですが、北に向かって右側は道路よりもやや高く(50cm程度高)、左側は道路よりも低く(50cm程度低)なっています。
 通常、復元基壇は史跡を壊さぬよう、盛土の上作るので、左側が遺跡に対して僅かの盛土、右側が盛大な盛土になっているのではないでしょうか。しかし、史跡の公園から続く住宅街は、ほぼ道路右側の高さになっています。となると、国分寺時代の地表に50cmも土が堆積していることになり、左側はそうではないこととなり、少し疑問の残る状況。いつの時代かに造成されたのでしょうか?
 仮に造成されたとすると、アパートの敷地に塔基壇の名残はないはず?

・伽藍配置を検討
 結局、現地では確証を得られなかったので、航空写真を参考に、石田茂作先生の片山廃寺略図、と甲斐国分寺の金堂を基準とした塔位置からなる伽藍想像図を作成してみました。甲斐国分寺の塔位置としたのは、石田茂作先生の本で検討したところ、一番塔位置が南であったためです。しかしながら、甲斐国分寺よりも、塔位置はもっと南のようです。甲斐国分寺は規模が小さいからでしょうか。もしかすると、このアパートではないのかな?と、ページをめくっていると、東大寺の東塔の位置は、甲斐国分寺よりもやや南のよう。とすると、東大寺に範を取っているとすれば、こんな位置になり、アパートとの関連もつじつまが合います。ふ~む。発掘報告書が読みたいです。

 実際に訪問した古代寺院についても記事にしていないものが多いのに、未訪問の国分寺について記事にしていいものか(^^;。若干の葛藤はありますが、気の向くままに。

 少し前、石田茂作氏の「東大寺と国分寺」という本を入手しました。その中に、国分寺の例がいくつか掲載されているわけですが、石田先生は駿河国分寺として片山廃寺を断定しておられます。

 私的には駿河国分寺については、現状ではいくつかの候補地があり、片山廃寺もその一つ、というように認識していたので意外でした。
 一般には、片山廃寺は規模、年代的には国分寺の様相であるが、塔跡が発見されないため、国分寺と断定されがたく、国分寺でない場合、豪族の氏寺であろうというところだと思います。

 対して、石田先生は、主に伽藍配置が出雲国分寺などの国分寺式(東大寺式)配置の伽藍配置であること、条里制に従う方2町の寺域、講堂、金堂の心々距離による地割、瓦当の文様から確信されています。

 また、未発見とされる塔跡を、金堂の東に設定しておられます。ただ、塔跡と断定されているわけではないので、これがこの後、新たな発掘等で、塔跡ではないと否定されたのでしょうか?機会を見つけて発掘報告書を確認してみたいところです。

 さて、金堂東の塔跡は、なにか別の建物など、どうやら違うようですが、地割を中心とした先生の分析を読ませていただくと、私も片山廃寺が駿河国分寺であろうと思うわけです。先生がこの本を著した段階では、現在ほど情報がなかったこともあり、基本的にすべての国分寺が国分寺式配置であろうと述べられている点は、一部否定されてしまっているわけですが(大官大寺式の上総国分寺、美濃国分寺など)、その一方、大部分の国分寺はおそらく先生が言われるように国分寺式配置で細かな配置もかなり共通しており、法隆寺式配置とされる下総国分寺などは研究により覆る可能性を秘めているように思います。

 そして、ネット情報によりますと、近年、片山廃寺の金堂南東方向に、南北約16.5mの掘り込み地業跡が発見され、塔跡の可能性があるとのこと。金堂南東方向に塔を置くことは、標準的な国分寺式配置。ほぼ間違いないと思われます。今後の追加調査に期待です。
 ううむ。片山廃寺、行ってみたい…。
 しなの鉄道(旧信越本線)に、信濃国分寺駅という駅があります。学生時代、信越線で東京へ行くたび、この信濃国分寺跡が気になっていました。
 就職して、自分の車を持つようになった、15年ほど前、初めて現地に行きました。当時は、よくわからない遺跡だなぁ、などと思ったもんですが、古代寺院跡をいくつか見てきた今にしてみると、この遺跡の整備状況は素晴らしいと感心してしまっています。変われば変わるもんですね。
 現段階で、国分寺跡と国分尼寺跡がこれほど明らかになっていて、しかも保存状況がよく、さらに近接している国分寺跡はここしかないでしょう。
 ただ、同じく整備状況の良い美濃国分寺跡などに比べると、礎石、心礎がないのがさびしい部分です。礎石については、原位置を離れているものの、現国分寺にそれらしきものがあり、まずまずとも言えますが、心礎は残念です。
 もう一点は、上記信越線の建設による破壊。思いっきり史跡内を横断しています。全く建物がない状態では、せめて南門、中門と通過し、金堂、講堂と歩いてみて、想像しながら眺めるのがわずかな楽しみですが、信越線に横断されているため、イメージが中断されてしまいます。まぁ、建設を機に全面発掘されたことを考えると痛し痒し。
 比較的自宅に近く、上記の様に整備状況がよいため、しばしば訪れていますが、この遺跡に、上総国分尼寺のような復元がなされないかかなぁ、と淡い期待をしています。
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