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写真、機材、史跡等々についてのつれづれ日記
年単位で間が開きました。諸般の事情でそれほど調査ができていない、本長者原廃寺(越後国分寺)ですが、私にとって青天のへきれきとも言うべき、新聞記事が。
 2015年10月28日付けの新潟日報の「まちかど歴史探訪」というコーナーに載った、「国分寺塔の礎石と伝えられる石」という記事です。
 
 この石については、また記事を改めて記載したいと思いますが、失われた塔心礎の一部と伝わる切石で、写真まで掲載されていました。そして重要な情報もいくつか。
 また調査に力が入れねばならない状況となってきました。

 さて、この間、私自身がしていた事といえば、ほぼ何もしていなかったに等しいのですが、それでも時折、インターネットで情報を探すことを中心に活動していました。
 奈良文化財研究所の古代寺院遺跡データベースというデータベースで、本長者原廃寺の塔跡の具体的な場所がわかり、これと旧更正図等を重ねて検討し、本長者原廃寺の伽藍配置を私なりに推定してみました。



 建物基壇跡と想定されている畑の配置は、一番北の講堂跡想定の畑から金堂跡想定の畑までの距離を1とすると、南門跡と想定される畑までは、金堂跡から2の距離となっていて、やはり国分寺式配置にかなり良く整合しています。金堂跡と南門跡の中間点、金堂から1の場所には中門があったのではないでしょうか。
 
 そして、この畑に甲斐国分寺の実測図を重ねると、ほぼ原寸で講堂、金堂、南門基壇の畑位置が甲斐国分寺の講堂、金堂、南門に一致します。そして、塔跡も。

 本長者原廃寺の塔の規模は甲斐国分寺よりもやや小さいようですが、金堂、講堂等はほぼ同規模だったのではないでしょうか。

 これまで、私が想定し、現地を探索していた辺りよりもはるかに西です。そして、南側が関川による段丘地形で、崖のようになっているのですが、この崖に接近していることも注目したい点。古代の今池遺跡には南北に作られた運河の痕跡が出土しています。つまり、船で国府(今池)までこられたということで、おそらく、本長者原廃寺の南を流れる関川の水量が今よりはるかに多く(平安海進?)、川幅も広大でこの運河と接続され、船の交通も盛んであったと思われます。
 とすると、京都の僧、万里集九が京都から船で来たとすれば、海から広大な関川に入っても河川であると思わず、関川のことを海として、「越後国分寺は、海際の崖の上にあった」といったのかもしれません。
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