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写真、機材、史跡等々についてのつれづれ日記
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 さてさて、このカテゴリー、古代寺院の初投稿は、百済大寺(大官大寺・大安寺)についてにしたいと思います。
 今から10年ほど前、新聞に吉備池廃寺という名前が考古学上の世紀の発見として新聞に取り上げられました。通常、廃寺の場合、文献に出てくる本来の名前と一致することが明らかでない場合、発見された場所の地名に廃寺をつけて呼ばれるため、吉備池廃寺は正式名が不明な寺です。
 しかしながら…。発見された基壇(建物跡)の規模は巨大この上なく、また年代的にも非常に古く、その年代でこの巨大さをもつ寺で所在が明らかでない歴史上の寺は、ただ一つ。長年、場所がわからなかった百済大寺しかなかったのです。また、塔基壇から推測される塔の規模は、九重塔。いやはやすごい。

 というわけで、見に行きたくてたまらなかった場所へ、今から5年程前、行ってきました。これほど大々的に発表されたものでもあるし、すぐにわかるだろうと思い、現地へ行きましたが、もうすでに発掘調査は終了していたこともあって、なかなか判りません。結局夜になってしまい、嫁の提案を聞き入れ、地元の人に聞いてやっと判りました。
 夜ではほんとに何がなんだかわからなかったので、付近で一泊して翌朝再訪。

 一言でいうと、まぁ、土手ですな…。現在、農業用の用水として吉備池は使われているのですが、これの堰堤の一部に組み込まれています。僕がそれまでに行ったことのある古代寺院の基壇はせいぜい80cm。基壇の近くへ行けば、基壇の上面の様子はよく見えるものです。がしかし、吉備池廃寺の基壇は現状で2メートル以上の高さがあるのです!上らなければ上面なんてぜんぜん見えない。これはすごい。
 すごいのだけど、すごすぎて誰もこれが寺院の基壇だと思っていなかったために発見されなかったようです。
 世の中、こんなことがあるんですね…。

 吉備池廃寺は、新たな謎を生みました。この寺院跡からは通常出土するはずの瓦や礎石といった遺物がほとんどでません。これ自体は謎ではなく、理由は推測されています。この寺は、完成後30年程で移築されたと記録に残っています。移築先は、高市という場所で、新たに高市大寺と呼ばれました。この後、再度改称し、「大官大寺」となり、平城京への移築で、「大安寺」となります。
 大官大寺については、奈良の明日香村に、跡が発見されています。大安寺についても、現在小規模な寺院となっていますが、平城京の南部に現存しています。百済大寺は、高市大寺へ移築されたために瓦も礎石もないということは史料と合致しています。
 吉備池廃寺=百済大寺、高市大寺=大官大寺、大安寺、すべて明らかなようなのですが、ここに問題があります。高市大寺は改称されて大官大寺になりましたが、明日香村で発見されている大官大寺はこれではないことがわかりました。高市大寺が大官大寺になった後に、ある時点で新規の大官大寺として建造されたようなのです。
 基壇の中から比較的新しい陶器の破片が見つかりその年代との整合から、高市大寺でないことは決定的です。
 吉備池廃寺はどこへ移築されたのか…。移築された先の高市大寺の基壇規模は吉備池廃寺並みのはずなのに、どうして見つからないのか。この謎を探りにまた奈良へ行きたいのですが、子供が大きくなるまでは無理かなぁ…
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