写真、機材、史跡等々についてのつれづれ日記
そろそろ秋試験の申し込み期限です。いつもこのこの頃になると、秋試験の対策が遅れていることを不安になりつつも、早めに申し込みをしていましたが、今回は申し込まないまま、期間が終わろうとしています。
さる6月19日、4月中旬に受験していたエンベデッドシステムスペシャリスト試験の発表日。少し不安があったものの、なんとか合格していました。
そして、この試験の合格で目標としていた情報処理技術者試験全科目(パスポート以外…)合格となりました。
私は、長野で受験していたわけですが、この間、試験会場もいろいろ変わり、受験者としての私から見た情報処理試験も少しづつ変わっていました。
最初は信大教養学部、つづいて、Mウェーブ。ここは数年続きました。この頃の情報処理技術者試験は、駅からのシャトルバス、会場での弁当販売があって、今からすると華やかなりし頃で、待遇はよかったのですが、スケート場ということもあって、春も冬もとにかく寒かった記憶があります。そして、アリーナを簡単に仕切っただけなので、隣の試験管の声が聞こえてしまい、時間帯が違う試験の「試験をやめてください!」の声にビクっとなったり…。印象に残っています。
Mウェーブが会場として押さえられなくなってからは、東部中学校、長野女子短大が会場になりました。この頃には、シャトルバス、弁当販売はなくなり、情報処理試験は斜陽化してきた時期です。しかし、この頃から試験の成績(スコア)がインターネットで確認できるようになり、これまでどのような経過で合格したのか明確に分かるようになり、モチベーションが維持しやすくなりました。私は、このあたりからまじめに準備をするようになりました。
次の会場は、信大工学部。数回続いた覚えがあります。この頃から、長野マラソンが始まって、4月第3日曜日は必ずぶつかるようになりました。最初の年は、その長野マラソンの交通規制につかまって、午前の試験に10分遅刻。この頃には午前の試験で落ちることはほとんどなくなっていたのでなんとか合格しましたが、長野マラソンを嫌いになりました(^^;。この後も、4月の試験では道路を横断できなくて試験開始時間にギリギリになったり、コンビニで弁当を買おうとしたら何一つ残っていなかったりと長野マラソンには、苦い思い出がいっぱいです。
この後は、しばらく会場は長野高校になりました。今思えば、このあたりから受験者の減少が顕著化してきたようです。春の試験は、桜の開花と重なったり、机に現役高校生の気配を感じて自分の高校時代を思い出したり、長野高校もいい試験会場でした。
そしてこの数年は、最後のJA長野県ビル。ここは駅から近くていいのですが、何階へ行っていいのか、表示されておらず、最初は戸惑いましたが、3,4回目位になると、案内がなくとも、いつもどおりの11階付近に行ってみて、違っていれば階段で調整したりと、慣れた会場になっていました。そして、この会場が私にとって最後の会場となりました。
4月と10月の第3日曜日は、毎年情報処理技術者試験の受験日。このリズムで約20年。いつものこと、になっていたこの試験にもう行かないでよいというのは、終わってしまうとちょっと寂しいです(もしかすると、セキュリティマネージャ試験?で1回復活できるかも?)。
これにて、私の情報処理技術者試験は、終戦となりました。
さる6月19日、4月中旬に受験していたエンベデッドシステムスペシャリスト試験の発表日。少し不安があったものの、なんとか合格していました。
そして、この試験の合格で目標としていた情報処理技術者試験全科目(パスポート以外…)合格となりました。
私は、長野で受験していたわけですが、この間、試験会場もいろいろ変わり、受験者としての私から見た情報処理試験も少しづつ変わっていました。
最初は信大教養学部、つづいて、Mウェーブ。ここは数年続きました。この頃の情報処理技術者試験は、駅からのシャトルバス、会場での弁当販売があって、今からすると華やかなりし頃で、待遇はよかったのですが、スケート場ということもあって、春も冬もとにかく寒かった記憶があります。そして、アリーナを簡単に仕切っただけなので、隣の試験管の声が聞こえてしまい、時間帯が違う試験の「試験をやめてください!」の声にビクっとなったり…。印象に残っています。
Mウェーブが会場として押さえられなくなってからは、東部中学校、長野女子短大が会場になりました。この頃には、シャトルバス、弁当販売はなくなり、情報処理試験は斜陽化してきた時期です。しかし、この頃から試験の成績(スコア)がインターネットで確認できるようになり、これまでどのような経過で合格したのか明確に分かるようになり、モチベーションが維持しやすくなりました。私は、このあたりからまじめに準備をするようになりました。
次の会場は、信大工学部。数回続いた覚えがあります。この頃から、長野マラソンが始まって、4月第3日曜日は必ずぶつかるようになりました。最初の年は、その長野マラソンの交通規制につかまって、午前の試験に10分遅刻。この頃には午前の試験で落ちることはほとんどなくなっていたのでなんとか合格しましたが、長野マラソンを嫌いになりました(^^;。この後も、4月の試験では道路を横断できなくて試験開始時間にギリギリになったり、コンビニで弁当を買おうとしたら何一つ残っていなかったりと長野マラソンには、苦い思い出がいっぱいです。
この後は、しばらく会場は長野高校になりました。今思えば、このあたりから受験者の減少が顕著化してきたようです。春の試験は、桜の開花と重なったり、机に現役高校生の気配を感じて自分の高校時代を思い出したり、長野高校もいい試験会場でした。
そしてこの数年は、最後のJA長野県ビル。ここは駅から近くていいのですが、何階へ行っていいのか、表示されておらず、最初は戸惑いましたが、3,4回目位になると、案内がなくとも、いつもどおりの11階付近に行ってみて、違っていれば階段で調整したりと、慣れた会場になっていました。そして、この会場が私にとって最後の会場となりました。
4月と10月の第3日曜日は、毎年情報処理技術者試験の受験日。このリズムで約20年。いつものこと、になっていたこの試験にもう行かないでよいというのは、終わってしまうとちょっと寂しいです(もしかすると、セキュリティマネージャ試験?で1回復活できるかも?)。
これにて、私の情報処理技術者試験は、終戦となりました。
PR
さてさて…。日頃、子育ての間に、カメラをいじったり、遺跡を調査したりと趣味を謳歌している感のある私ですが、数ヶ月前、少しばかり違った日々がありました。
それは、タイトルのとおり、骨髄移植ドナーを体験してきたことです。
原則、骨髄移植について、実施した病院、時期が特定されるような記事は禁止ということで、しばらく間をあけてみました。
ブログへの記載も正直迷ったりしてるうちに、忘れ始めていたのですが、先日、関係団体の方から、体験記の依頼を受けました。
さっそく原稿を書いたところ、「長すぎる!」といわれてしまい、用意した原稿の大半をカットしたのですが、せっかく書いた原稿なので、ここに掲出することにします。
・骨髄バンクからの手紙
骨髄バンクにドナー登録をして、1年ほど経ったある日、見慣れない封筒が家に届いていました。ドナー候補に選ばれたという通知、これから普段の日常と少し変わった経験が始まりました。
多くの方は、おそらくこの通知を見たとき、非常に前向きに考えると思います。私も、内容を理解したときから、「やるしかない」、気持ちは半分以上決まっていたように思います。
・しかし、一抹の不安も…
しかしながら、独身時代なら問題はありませんが、いちおう今はまだ小さい子どもたちの父親となっています。家族、特に妻が大反対したら、それを理由にやめておこう、こんな気持ちも確かにありました。
・家族の反応
まずはじめに妻に話したところ、賛成ではないものの、とりあえず話を聞いてみようということになり、骨髄バンクへドナーを受けるという返事をすることとなりました。
このときは、最終的に、反対されてできないかもしれないし、予備検査の段階で、外れることも多いらしい、きっと自分もそうなる、だから今は深く考える必要はない、そんな風にも思ってました。
・最終候補者へ
しかし、段階は順調に進み、最終的に候補者に選ばれる段になってしまいました。ここでようやく、私自身として本格的に意思決定をしなければ、という気持ちになってきました。
骨髄バンクからもらった「ドナーのためのハンドブック」を何度も読み返したり、リスクについてインターネットで検索したり…。
やはりもっとも気になるのは、どの程度ドナーの事故が起こっているのか、このことです。
先のハンドブックもこの部分に多くのページを割き、なるべく多くの情報を正確に伝えようとしていることが読み取れます。死亡事故は皆無ではなく、何件か起こっています。ただし、骨髄バンクが関与した骨髄移植については、死亡事故は発生していないとのこと。骨髄移植は、日本で1万8千件以上実施されています。
非常に移植実施件数に対して圧倒的に低い事故件数。統計学的には有意な意味をなさないほど小さな数字。客観的にみると、絶対大丈夫と思われました。しかし、次に起こるその1件でも、起きたら自分は死んでしまうかもしれない、こんなことを心配するもう一人の自分もいました。
・リスクの評価
患者本人さんが否応なしに向き合っているリスクに比べれば、非常に小さなリスク。しかしこの小さなリスクに直面して、おおげさながら人の生と死、自分にできること、するべきことを考えて、気持ちは揺れました。この時は、何日も断続的にどうするべきか考え、こんなに悩むのはもういやだなぁ、もし移植が行われて無事任を果たせたら、ドナーの登録は抹消しよう、と思っていました。
・ついに最終同意
最終同意の日。同行した家族は、妻と母親でした。母親には詳しい説明をせず、最終同意の場にきてもらったので、少し戸惑わせてしまったようです。私のコーディネーターAさん、第三者の同席者(この件に関わっていない別のコーディネーターの方)、医学的な面を説明してくださる医師から順に説明があり、意思表明の段となりました。臆病な自分がひそかに期待していた家族、特に妻の大反対はなく、すんなり同意ということとなり、最終的に自分の意思で決断する形になってしまいました。
・決断した理由
私の場合、もう最初に気持ちは決まっていましたが、勢いで突っ込みすぎて失敗するタイプです。相手の患者さんのことはもちろんでしたが、やめるという選択肢もあるということ、いろいろな面を考慮するように努めました。
悩んだ末、このときたどり着いていた骨髄移植を受ける理由は、「もし、やるなら早く、患者の方にとってなるべくよい状況で」、これも確かに大きい理由でしたが、最終的に踏み切った一番の理由、それは恥ずかしながら非常に個人的な理由で、幼い子供たちに「なにかあったらお父さんが助けるぞ」これを行動で示すこと、でした。
・入院
入院の日。これが私にとって初めての入院だったので、一抹の不安の中、入院生活とはどんなものか、楽しみでもありました。夜、たまたま持ち込んで読んでいた本に、主要登場人物の子供さんが白血病で若くして亡くなる話が出てきました。偶然に驚き、その境遇に同情しつつ、自分がこのような方を救う一助になれるかもしれないことに、うれしい気持ちとともに、不安を感じました。
きっと上手くいく、そう言いきかせながら寝床に入りました。
・手術
入院2日目、手術の時があっという間にやってきました。術前から最も不安だった、全身麻酔。なるべく意識を保っていようと思っていましたが、麻酔の効果は素晴らしく、あっという間に意識を失ってしまいました。
手術の間、夢を見ていたようです。おぼろげながらつらい夢ではなく、楽しい夢だったように思います。起こされた時、夢では歩いている場面だったのに、天井が見えてものすごく驚きました。そして、無事に終わったことがとにかくうれしかったです。
・術後の痛み
病室に戻ると術前の説明通り、採取部の腰などに痛みがありました。じっとしているとそれほどでもないものの、動くと痛い。そして排尿時の痛み。しかし、やるんじゃなかった、と思われるほどの痛みではなく、全身麻酔であっという間に意識を失ってしまい、手術のことをまったく知らない私にとって、骨髄提供を確かに行った、その実感を感じさせてくれる唯一といってもいい負担でした。そのため私はこの痛みに耐えることをどこか喜んで受け入れていました。痛みは、入院の間にもどんどん和らいでいきました。
・患者の方
私の骨髄提供を受ける患者さんは、はるか遠くに居住する同年代の男性だそうです。家族はいるのだろうか、父親なのだろうか。もし、そうなら奥さんや子供さんは心配しているだろうな。顔も見たことはありませんが、自分自身の身に置き換えて考えているうちに、私は戦友のように思っていました。手術が終わり無事採取された骨髄液が患者さんに渡ったと聞いたとき、「私の方はうまくいったよ、そちらもがんばって!」、そんな気持ちでした。
・私にとってのドナー経験
月日が経って骨髄提供を実感させてくれていた痛みも全くなくなってしまった今、骨髄提供が幻のようにも感じてしまいます。しかし、入院に際して、わずかなリスクを契機に、人の生死、自分のすべきこと、できることを考えた時間は自分にとって非常に貴重な時間であり骨髄提供を通して大変よい経験をさせてもらえたと思っています。骨髄移植に対する考えも移植前と全く変わり、ドナー登録は、もちろんそのまま継続することにしました。
コーディネーターさんによれば、2度骨髄提供をしているドナーは、1割ほどもいるといいます。1回でもドナーに選ばれる確率を考慮すると、かなり高い確率であると思えます。もしかすると、一致しやすい型というのがあるのかもしれない。となると、私にも2回目のチャンスが来るのではないか。そんな淡い期待をもつようになってしまいました。いざ2回目が来たら、もう一度この提供ができるようにする、これが今の私にとって健康管理の最大の目標です。
・これからドナーになるかどうか決める方がいたら…
骨髄移植については、患者さんの治療へ有効かどうか、この点が最も重要であって、ドナーの意向がどうこう、ということはあくまで付随的なものであると思います。この点を踏まえた上で、もし私が、これから意向を決めようというドナー候補の方から相談を受けたら…。「患者さんへ与えるだけでなく、ドナーとしても得るものがあります」、このことを伝えたいと思います。
最後に、患者さんの病状が好転し、幸せな時を送っていらっしゃることを心から願っています。
また、この骨髄移植にあたり、私を支えてくださった親愛なるコーディネーター、Aさんに心から感謝いたします。
それは、タイトルのとおり、骨髄移植ドナーを体験してきたことです。
原則、骨髄移植について、実施した病院、時期が特定されるような記事は禁止ということで、しばらく間をあけてみました。
ブログへの記載も正直迷ったりしてるうちに、忘れ始めていたのですが、先日、関係団体の方から、体験記の依頼を受けました。
さっそく原稿を書いたところ、「長すぎる!」といわれてしまい、用意した原稿の大半をカットしたのですが、せっかく書いた原稿なので、ここに掲出することにします。
・骨髄バンクからの手紙
骨髄バンクにドナー登録をして、1年ほど経ったある日、見慣れない封筒が家に届いていました。ドナー候補に選ばれたという通知、これから普段の日常と少し変わった経験が始まりました。
多くの方は、おそらくこの通知を見たとき、非常に前向きに考えると思います。私も、内容を理解したときから、「やるしかない」、気持ちは半分以上決まっていたように思います。
・しかし、一抹の不安も…
しかしながら、独身時代なら問題はありませんが、いちおう今はまだ小さい子どもたちの父親となっています。家族、特に妻が大反対したら、それを理由にやめておこう、こんな気持ちも確かにありました。
・家族の反応
まずはじめに妻に話したところ、賛成ではないものの、とりあえず話を聞いてみようということになり、骨髄バンクへドナーを受けるという返事をすることとなりました。
このときは、最終的に、反対されてできないかもしれないし、予備検査の段階で、外れることも多いらしい、きっと自分もそうなる、だから今は深く考える必要はない、そんな風にも思ってました。
・最終候補者へ
しかし、段階は順調に進み、最終的に候補者に選ばれる段になってしまいました。ここでようやく、私自身として本格的に意思決定をしなければ、という気持ちになってきました。
骨髄バンクからもらった「ドナーのためのハンドブック」を何度も読み返したり、リスクについてインターネットで検索したり…。
やはりもっとも気になるのは、どの程度ドナーの事故が起こっているのか、このことです。
先のハンドブックもこの部分に多くのページを割き、なるべく多くの情報を正確に伝えようとしていることが読み取れます。死亡事故は皆無ではなく、何件か起こっています。ただし、骨髄バンクが関与した骨髄移植については、死亡事故は発生していないとのこと。骨髄移植は、日本で1万8千件以上実施されています。
非常に移植実施件数に対して圧倒的に低い事故件数。統計学的には有意な意味をなさないほど小さな数字。客観的にみると、絶対大丈夫と思われました。しかし、次に起こるその1件でも、起きたら自分は死んでしまうかもしれない、こんなことを心配するもう一人の自分もいました。
・リスクの評価
患者本人さんが否応なしに向き合っているリスクに比べれば、非常に小さなリスク。しかしこの小さなリスクに直面して、おおげさながら人の生と死、自分にできること、するべきことを考えて、気持ちは揺れました。この時は、何日も断続的にどうするべきか考え、こんなに悩むのはもういやだなぁ、もし移植が行われて無事任を果たせたら、ドナーの登録は抹消しよう、と思っていました。
・ついに最終同意
最終同意の日。同行した家族は、妻と母親でした。母親には詳しい説明をせず、最終同意の場にきてもらったので、少し戸惑わせてしまったようです。私のコーディネーターAさん、第三者の同席者(この件に関わっていない別のコーディネーターの方)、医学的な面を説明してくださる医師から順に説明があり、意思表明の段となりました。臆病な自分がひそかに期待していた家族、特に妻の大反対はなく、すんなり同意ということとなり、最終的に自分の意思で決断する形になってしまいました。
・決断した理由
私の場合、もう最初に気持ちは決まっていましたが、勢いで突っ込みすぎて失敗するタイプです。相手の患者さんのことはもちろんでしたが、やめるという選択肢もあるということ、いろいろな面を考慮するように努めました。
悩んだ末、このときたどり着いていた骨髄移植を受ける理由は、「もし、やるなら早く、患者の方にとってなるべくよい状況で」、これも確かに大きい理由でしたが、最終的に踏み切った一番の理由、それは恥ずかしながら非常に個人的な理由で、幼い子供たちに「なにかあったらお父さんが助けるぞ」これを行動で示すこと、でした。
・入院
入院の日。これが私にとって初めての入院だったので、一抹の不安の中、入院生活とはどんなものか、楽しみでもありました。夜、たまたま持ち込んで読んでいた本に、主要登場人物の子供さんが白血病で若くして亡くなる話が出てきました。偶然に驚き、その境遇に同情しつつ、自分がこのような方を救う一助になれるかもしれないことに、うれしい気持ちとともに、不安を感じました。
きっと上手くいく、そう言いきかせながら寝床に入りました。
・手術
入院2日目、手術の時があっという間にやってきました。術前から最も不安だった、全身麻酔。なるべく意識を保っていようと思っていましたが、麻酔の効果は素晴らしく、あっという間に意識を失ってしまいました。
手術の間、夢を見ていたようです。おぼろげながらつらい夢ではなく、楽しい夢だったように思います。起こされた時、夢では歩いている場面だったのに、天井が見えてものすごく驚きました。そして、無事に終わったことがとにかくうれしかったです。
・術後の痛み
病室に戻ると術前の説明通り、採取部の腰などに痛みがありました。じっとしているとそれほどでもないものの、動くと痛い。そして排尿時の痛み。しかし、やるんじゃなかった、と思われるほどの痛みではなく、全身麻酔であっという間に意識を失ってしまい、手術のことをまったく知らない私にとって、骨髄提供を確かに行った、その実感を感じさせてくれる唯一といってもいい負担でした。そのため私はこの痛みに耐えることをどこか喜んで受け入れていました。痛みは、入院の間にもどんどん和らいでいきました。
・患者の方
私の骨髄提供を受ける患者さんは、はるか遠くに居住する同年代の男性だそうです。家族はいるのだろうか、父親なのだろうか。もし、そうなら奥さんや子供さんは心配しているだろうな。顔も見たことはありませんが、自分自身の身に置き換えて考えているうちに、私は戦友のように思っていました。手術が終わり無事採取された骨髄液が患者さんに渡ったと聞いたとき、「私の方はうまくいったよ、そちらもがんばって!」、そんな気持ちでした。
・私にとってのドナー経験
月日が経って骨髄提供を実感させてくれていた痛みも全くなくなってしまった今、骨髄提供が幻のようにも感じてしまいます。しかし、入院に際して、わずかなリスクを契機に、人の生死、自分のすべきこと、できることを考えた時間は自分にとって非常に貴重な時間であり骨髄提供を通して大変よい経験をさせてもらえたと思っています。骨髄移植に対する考えも移植前と全く変わり、ドナー登録は、もちろんそのまま継続することにしました。
コーディネーターさんによれば、2度骨髄提供をしているドナーは、1割ほどもいるといいます。1回でもドナーに選ばれる確率を考慮すると、かなり高い確率であると思えます。もしかすると、一致しやすい型というのがあるのかもしれない。となると、私にも2回目のチャンスが来るのではないか。そんな淡い期待をもつようになってしまいました。いざ2回目が来たら、もう一度この提供ができるようにする、これが今の私にとって健康管理の最大の目標です。
・これからドナーになるかどうか決める方がいたら…
骨髄移植については、患者さんの治療へ有効かどうか、この点が最も重要であって、ドナーの意向がどうこう、ということはあくまで付随的なものであると思います。この点を踏まえた上で、もし私が、これから意向を決めようというドナー候補の方から相談を受けたら…。「患者さんへ与えるだけでなく、ドナーとしても得るものがあります」、このことを伝えたいと思います。
最後に、患者さんの病状が好転し、幸せな時を送っていらっしゃることを心から願っています。
また、この骨髄移植にあたり、私を支えてくださった親愛なるコーディネーター、Aさんに心から感謝いたします。
先日、福井県の恐竜博物館へ行ってきました。実はこの恐竜博物館を訪問するのは今回で2回目で、どれだけ恐竜が好きなんだ、という気がしないでもありません。
もちろん、子どもが好きなことから2回目の訪問となったわけですが、2013年に行った1回目の写真を見ていると、写真的にはなかなか照明の感じ等がよく、暗く失敗率が高いものの、よい写真が撮れる気がしていたので2回目も悪くありません。今回は前回のポイントを考慮してよい写真を狙わねば。
前回、広角が良い感じだった印象がしていたので、今回も前回同様、A17-35/3.5G中心かなぁ、と用意していきました。帰って来てPCで確認するとやはり良い写真があります。さて、「前回と比べると、俺の腕もあがったかなぁ」、と見比べてみると、A17-35/3.5G中心だと思っていた前回の写真は、すべて近年殆ど持ち出したことのない、A28-85/3.5-4.5で写しているではありませんか。そういえば、気まぐれでこのときだけ持っていったような気がします。
(A900 ISO1600 1/50 F4 A28-85/3.5-4.5 28mm)
私の目が節穴なせいかも知れませんが、A17-35/3.5Gで写したものに劣らない、しかも色の乗り方はむしろこちらのほうが私の好みかも?むぅ…
(A900 ISO1600 1/60 F3.5 A17-35/3.5G 17mm)
もちろん、子どもが好きなことから2回目の訪問となったわけですが、2013年に行った1回目の写真を見ていると、写真的にはなかなか照明の感じ等がよく、暗く失敗率が高いものの、よい写真が撮れる気がしていたので2回目も悪くありません。今回は前回のポイントを考慮してよい写真を狙わねば。
前回、広角が良い感じだった印象がしていたので、今回も前回同様、A17-35/3.5G中心かなぁ、と用意していきました。帰って来てPCで確認するとやはり良い写真があります。さて、「前回と比べると、俺の腕もあがったかなぁ」、と見比べてみると、A17-35/3.5G中心だと思っていた前回の写真は、すべて近年殆ど持ち出したことのない、A28-85/3.5-4.5で写しているではありませんか。そういえば、気まぐれでこのときだけ持っていったような気がします。
(A900 ISO1600 1/50 F4 A28-85/3.5-4.5 28mm)
私の目が節穴なせいかも知れませんが、A17-35/3.5Gで写したものに劣らない、しかも色の乗り方はむしろこちらのほうが私の好みかも?むぅ…
(A900 ISO1600 1/60 F3.5 A17-35/3.5G 17mm)
保存蒸気機関車です。昨年末、梅小路機関区に行って来て、題材候補は沢山ありますが、やる気のない撮影をしてきたため、ブログへ掲載するのがためらわれており、このカテゴリーも充実しません。しかし、以前も宣言したとおり、資料写真ということで割り切って行きたいと思います。
今回は、比較的近間にあり、いつでもいける保存蒸気、9646です。
・自由に見学できる!
状態はあまり変わったように思えませんが、この機関車、乗り降りが特に規制されていません。
運転席に上ったり、釜の口をあけたりといろいろできます。
今回、初めて子どもと一緒に行きましたが、子どもを上らせると、結構高くて怖いですね。やはり、蒸気機関車は大きいものなんだなぁ、と改めて思いました(9646はD51とかに比べると小さいのですが(^^;)。親のそんな気持ちは知らず、子ども達は大喜び。展示方法もいろいろありますね。一長一短です。
・ねじ式(イギリス式)連結器
今までは、あんまり気にせずに見ていましたが、この9646、機関車トーマスに良く出てくる、バッファーがついています。イギリスの機関車の連結器と同じもので、日本は鉄道導入時にこの形式で、9646は当初、この状態だったそうです。大正15年に、一斉に現在も使用されている、自動連結器に切り替えられ、9646も自動連結器に交換されていましたが、「蒸気機関車その100年」という映画に9600(9600形の1号機)の役で出演した際に、当初の姿に戻され、今に至るそうです。
・外された自動連結器
今回、9646を見に来た目的は、このねじ式連結器に戻す際に外した自動連結器が機関車の脇に置いてあるという情報を見たため。そんなのあったかなぁ、と思って現地へ行くと、確かにありました。
その連結器、写真撮ったと思うのですが、見つかりません…とりあえず現状の姿のみ。
2年前からこの時期にやってくる、撮影チャンス、娘の音楽発表会に行ってきました。
今回は以下の機材で臨みました。
ボディ
D700 α700(A700) α57(A57、動画)
レンズ
DX18-105VR F70-300VR A200/2.8G ×1.4テレコン
ADT18-70(動画) A70-210/3.5-4.5(動画)
毎年、少しづつ席が前になっているのが少し悩みどころで、昨年は420mm~450mmがちょうど良さそうだったので、今年は300mm中心で考えてみました。
A57は三脚に載せて動画専用、D700とA700を持ち替えながら撮ったわけですが、こんなに短い時間だったけなぁ、という感じであまり枚数を撮れませんでした。
出演時間短くなったのかなぁ、と思っていましたが、帰ってきて昨年、一昨年と比べてみると、これまでで、一番多く枚数を撮っていました。
しかし、3度目になっても、やはりこういうステージもの、なかなか難しいですね…。演出で光が安定していないし、ターゲット(娘)の表情もどんどん変わる。写真的には甚だ不満足な写真しかとれませんでした…。
そんな写真ですが、技術的、機材的視点で見返すとISO設定を間違えていたり、淡白に撮ってしまったりと失敗が多いものの、D700と70-300VRで撮った写真はなかなかよく、やはりこういうシーンでは便利かも。撮って出しのJPGであれば、ぱっと見では我が家で最も良い結果になることは間違いありません。
しかし、これまでノイズ処理という概念がなかった僕の写真道において、遅ればせながら最近導入されたNeatImage。これを使うと、最古参、α-7Digital(A-7D)のISO3200ですら、かなり使えます。
比較の意味も兼ねてもっていったA700+A200/2.8Gも表現的にはかなり良い写真(ISO3200ならNeatImageなし、6400がNeatImageで絵になります。)でありました。NeatImageを前提にするならば、暗いシーンでも、撮って出しが荒れることを恐れずに現有Aマウントのボディで十分いけそう。表現に合せて選んでいきたいと思います。
無事初陣を終えた、D700。カメラとしてやはりよく出来ています。使っていてなかなか楽しいボディなので気に入りました。
今回は以下の機材で臨みました。
ボディ
D700 α700(A700) α57(A57、動画)
レンズ
DX18-105VR F70-300VR A200/2.8G ×1.4テレコン
ADT18-70(動画) A70-210/3.5-4.5(動画)
毎年、少しづつ席が前になっているのが少し悩みどころで、昨年は420mm~450mmがちょうど良さそうだったので、今年は300mm中心で考えてみました。
A57は三脚に載せて動画専用、D700とA700を持ち替えながら撮ったわけですが、こんなに短い時間だったけなぁ、という感じであまり枚数を撮れませんでした。
出演時間短くなったのかなぁ、と思っていましたが、帰ってきて昨年、一昨年と比べてみると、これまでで、一番多く枚数を撮っていました。
しかし、3度目になっても、やはりこういうステージもの、なかなか難しいですね…。演出で光が安定していないし、ターゲット(娘)の表情もどんどん変わる。写真的には甚だ不満足な写真しかとれませんでした…。
そんな写真ですが、技術的、機材的視点で見返すとISO設定を間違えていたり、淡白に撮ってしまったりと失敗が多いものの、D700と70-300VRで撮った写真はなかなかよく、やはりこういうシーンでは便利かも。撮って出しのJPGであれば、ぱっと見では我が家で最も良い結果になることは間違いありません。
しかし、これまでノイズ処理という概念がなかった僕の写真道において、遅ればせながら最近導入されたNeatImage。これを使うと、最古参、α-7Digital(A-7D)のISO3200ですら、かなり使えます。
比較の意味も兼ねてもっていったA700+A200/2.8Gも表現的にはかなり良い写真(ISO3200ならNeatImageなし、6400がNeatImageで絵になります。)でありました。NeatImageを前提にするならば、暗いシーンでも、撮って出しが荒れることを恐れずに現有Aマウントのボディで十分いけそう。表現に合せて選んでいきたいと思います。
無事初陣を終えた、D700。カメラとしてやはりよく出来ています。使っていてなかなか楽しいボディなので気に入りました。
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
[02/24 富澤昭久]
[03/11 brian]
[12/10 Nerv]
[12/09 Nerv]
[01/28 toropusu]
最新記事
(08/18)
(07/10)
(06/28)
(06/28)
(05/29)
最新TB
プロフィール
HN:
tacarbon
性別:
男性
趣味:
史跡めぐり、写真ほか
自己紹介:
まとまりの無いブログですみません…
ブログ内検索
最古記事
(05/12)
(05/12)
(05/12)
(05/13)
(05/13)
P R